ひとひらの桜 第4話
久々、ひとひらの桜。
今回いろいろと加筆しました。書いていた当時、智代アフターが発売されていませんでしたので、智代アフターの要素は全くなかったんですけど、今回せっかくなので入れました。
ではでは、どうぞ。
-----------
仕事を終え、事務所に戻る。
今日はいつもよりも少な目だった。
それほど疲れてはいない。
「大丈夫か?」
見た目にもそう疲れはいないはず、それでも芳野さんからかけられる声に変化はない。
どういう意味かぐらいわかる。だが
「大丈夫ですよ、今日はいつもより楽でしたから」
俺はそう答えていた。
ふと、事務所から明るい声が聞こえる。
同僚の声だった。
「その日は俺の息子の授業参観でよ……」
……浮いた話だ。
聞きたくない。
俺は背を向け、無言でその場から去り、帰った。
ひとひらの桜 第四話
秋生さんと早苗さんが旅立ってしまった。汐さんと「じゃ、後は任たぜっ」という言葉を残して。
秋生さんの突飛な発言のあった日の翌日、詳しく説明するから、というので再度来てみたのだが、それはパンの詳しい焼き方の説明だった。
杏のときと同じ手口だ……。
どこへ行ったのかとか、何故汐さんを連れて行けないのか、など旅についての詳しい説明は何もしてくれなかった。
早苗さんですら「頼みますねっ」としか声をかけてくれなかった。
嵐のように二人は消え、結局、私と汐さん、そして店番だけが残ってしまったというわけだ。
杏にも事の次第は話したが「何考えてんのよ……」とコメントするしかないようだった。
私が「帰ってきたらきっと話してくれるだろう」そういうと一先ずは納得したようだった。
だが、今日からの二、三日の間、私と汐さんの共同生活が始まる、それだけは揺るぎないことのようだ。
最初はどうしたものかと色々考えた。
何せこんな幼い子供と過ごすなど経験したことがない。
杏に応援を頼もうかとも思った。だが、
「ゴメン、一晩も自宅あけてたらあいつらにベッド汚されちゃうのよ、マニアックなのが好きみたいでさ……」
と、ため息混じりのなんとも憂鬱そうな声が返ってきた。
その……卑猥な響きだったから……それ以上突っ込むのはやめておいた。
けど、興味はあった。問いただしたい気持ちは確かにあった。何せ私はまだそういう経験が……って何を考えているんだぁぁぁぁぁぁぁ!!!!
家にも連絡を入れ、着替えとかも鷹文に持ってこさせた。
「姉ちゃん、ついに一夜を過ごす相手が……」
と言いかけた鷹文は見るも無残な姿にしてやった。
後ろからついてきた河南子は
「先輩、ついに処女を卒業っすか! 私より(ピー)年遅れて!」
と言いだしたときは久々に夜の街を暗躍していたころを思い出した。
着替えをため息交じりに受け取り、汐さんをみつめる。
私の家で引き取ろうかとも思ったが、パンを焼かなくてはならない。何より家族にも迷惑をかけたくない。鷹文と河南子にも会いたくない。
それに汐さんも古河パンの方が安心できるだろうしな。
『あの二人が帰ってくるまで、汐さんは私一人で面倒をみるのだ』
最初はそう気負っていた。
が、いざ始めてみるとそんな気負いはすぐに折れた。
その……なんだ、汐さんがだな、可愛いのだ。だからだろうな、これが楽しいのだ。
一昨日の野球の時に汐さんを構っていたのだが、その時随分と気に入ってもらったらしく私にすごく懐いてくれている。
勿論、最初は二人がいなくなると知ると「いっしょにいきたい」と言いだしたりもした。
やはり、いくら懐いていてくれても、いつも一緒にいるあの二人には敵わないようで、いくら「私が一緒だ」といってもなかなか納得してはくれなかった。
だがおやつに、と思って私がホットケーキを作ってやるとようやく笑ってくれた。
「……おいしい」
微笑む汐さんの顔は……あまりにも可愛くてだな、つい、抱き締めてしまったくらい。
そして、その時から私は汐さんを"汐"と呼ぶことにした。
いつまでも「さん」付けでは他人行儀だから。かといって杏のように「ちゃん」付けにしようかとも思ったが私には似合わない。
汐もそれでいいと言ってくれた。
一番楽しかったのは夜だ。
夕飯は私と二人で一緒に作ったんだ。
子供の好きなものと言えばハンバーグ。型は汐さんにやってもらった。
ハートが多かったから私はハートが好きなんだな、と訊いてみた。
やはりこういうのが女の子らしいというのだろうと、そんな答えを期待して待っていたが
「ハートさまのマーク」
と返ってきた。
なんのことだ、と更に訊くと
「にくのかたまりにすぎないの」
と続いてしまった。
その意味がわかってしまった私にも嫌気がさしたが、こんなことを仕込む張本人には殺意が湧いてしまった。
秋生さん、こんな子供に北○ネタを教えるな……。
とにかく、夕飯も楽しめた。
そしてお風呂にも入った。これも楽しかった。
湯船につかっているとき
「智代おねーちゃん、おっぱい、おっきい」
なんて言われて、またまた驚いてしまった。
「さなえさんよりおっきいかも」
少し、いや、かなり恥ずかしかったが、スタイルには、いや、自慢とかではないぞ、私は少しは自信があったから、嬉しくもあり、って何を言っているんだ私は……。
つまりだ、夜は楽しかったんだっ!
だが、寝る前になるとそれも少し変わった。
いくら懐いてくれていてもだ、この子はまだ、五歳の子供なのだと痛感した。
そして、あの二人の存在の大きさも。
「さなえさんは?」
明かりを消したから不安になったのだろう。
淡い月明かりに照らされた汐の表情は曇っているようだった。
そして弱々しい声だった。
電話とかで二人の声だけでも聴かせれば安心するだろうが、生憎、音信不通だ。
「あっきーは?」
このまま、泣いてしまうのだろうか?
だけど、それもいいかもしれない。
不安なら、寂しいなら泣けばいいんだ。
私がまた抱き締めて、私が安心させてやってもいい。
だけど、それはこの五年間、苦労し続けてきた、あの二人への裏切りだ。
私がそれをやるわけにはいかない。
「二人はな、しばらく帰ってこないんだ」
昼間にも言ったことをもう一度聞かせる。
「……」
だけど、不安そうな顔は更に曇ってしまう。
賢い子なのだろう、納得してはいないようだが、それ以上二人については訊いてこない。
勿論、単に引っ込み思案なだけかもしれないが。
「パパは?」
「え……?」
唐突な言葉。
ここで朋也の名をだす汐に驚いた。
答えに詰まっていると同時に、再会した時に話してくれた杏の言葉が蘇った。
『"泣いていいのはパパの胸の中だけ"だって…そう、言い聞かせてるらしいの』
強い衝動。抱きしめたくなった。
優しく抱いて、汐を安心させてやりたい、そんな思いが強くなってしまった。
だけど、私はそれをぐっとこらえることができた。
本当に危ないところだった。
手の力を抜いた。
大丈夫だ、私は多分、笑えている。
「パパは、朋也はな、汐のパパになろうと頑張っているところなんだ。だから、まだ来れない」
「……?」
抱きしめてやることはできない、だけど、安心させてやることならできるはずだ。
私は、汐を少しでも安心させてやりたい。
だったら、私が今すべきことは一つだ。
「汐はパパのこと、好きか?」
少しでもいいパパを知って、それで、寂しさを忘れてもらうんだ。
私にできることがあるとすれば、多分、それくらいだろう。
「こわい……でもアッキーはほんとはそんなことないって。ほんとは汐のこと、だいすきなんだって」
「そうか」
汐がいつまでも朋也を忘れないのも、心から嫌うことがないのも、きっと、あの二人のおかげだ。
さっきも、二人が帰ってこないと知って朋也を求めてくれた。
よくよく考えれば凄いことのように思えるし、同時に安心できた。
「なぁ汐、パパのこと、知りたいか?」
そして、遠慮がちではあったが、それでも力強く、うんっと頷く汐から、私はまた一つ安心をもらった。
それは、今日一番の尊いもののように思えた。
それから私は、汐が寝入ってしまうまで朋也のことを話した。
随分と頑張って起きて聞こうとしてくれたが、じきに穏やかな寝息を立て始めた。
……どうか、夢の中だけでも、優しいパパに会えますように。
ふすまを閉め、部屋を出る時、私はそんなことを願った。
智代からの連絡を受けたのは家に着いてからだった。
旅立ってしまった、って言ってたけど、どう考えても朋也のためだ。
智代は汐ちゃんのことで頭がいっぱいのようだったからあまり気にしてないみたいだけど、あたしは落胆していた。
だって、あたしがこれしかないって思った案がとても浅はかなものだってわかっちゃったから。
『お前ら、あの親子のことを知らなさ過ぎるんだよ』
……やっぱり、あたしにできることなんてないんじゃないかな?
あの日智代に言われたこと、忘れたわけじゃないけど、でも、そう思わずにはいられなかった。
旅にしたって、あたしたちに話さない理由がわからなかった。
汐ちゃんを託されたという智代が羨ましかった。
あたしだって、何かしてあげたい。
だったら、手伝えばいい。智代よりあたしの方が子供の扱いには慣れている。
でも、そう考えた瞬間また自己嫌悪に陥った。
卑怯だよね、だって、それは智代のためじゃなくて、あたし自身の勝手な自己満足だ。
そんなのに浸っても、空しいだけ。
だからあたしは智代の頼みを断った。
辺りを見回す。
部屋には珍しく椋も勝平もいない。
あたし一人だった。
……また、後悔しそう…。
……弱音、吐きそう…。
……ねぇ朋也…あたし、どうしたらいんだろうね?
その晩、あたしはいつもより早く布団にもぐった。
もちろん、すぐに寝付けたわけじゃないけど、寝てしまうのが一番手っ取り早いと思ったから。
ふぅ……。
今日も無事にこの町に俺の愛の灯が増やすことに成功。絶好調だ。
仕事帰りにはいつもの場所へと行くつもりだ。
そう、俺の新たな音楽仲間たちの集う場所だ。
俺がそんな夜の楽しみに心を躍らせ事務所に戻った時のこと、何やらその事務所が騒がしい。
俺が中に入るとそこにいたのは岡崎に、社長、それに同僚の山崎の姿だった。
「でも、岡崎君はこのところ働いてばっかじゃない」
「そうだよ、いくら俺でも岡崎に代わってもらう訳には……」
「気にしなくていいですって」
この会話だけで大体の想像はつくが、近くにいた別の同僚にどうしたのかと訊いてみた。
そいつの説明によると、山崎は以前から小一になる息子の授業参観のために明日は丸1日休暇をとっていたらしい。
だが、メンバーの一人が事故でしばらく働けなくなり、その穴を山崎に埋めてもらおうと社長は考えたらしい。
山崎は勿論、困惑したが、そこへ明日、山崎と同じく休暇が決まっていた岡崎が代わりに行くと言い出したのだ。
「岡崎君、君はいつも土日返上で働いてくれている。
だからたまには休んで欲しい、僕はそう明日を思って休暇にしたんだよ?」
「でも俺、家にいたってゴロゴロしてるだけっすから。
そんな俺が休んで息子さんのいる山崎さんが出勤なんておかしいですよ」
「だけどよ、岡崎……」
「山崎さん、楽しみにしてたじゃないですか、息子さんの授業参観。社長、休みなら次の機会で構わないっすから、明日は俺に行かせてください」
「……」
社長も山崎もそういう岡崎に反論ができず、結局、岡崎は明日も出勤することとなった。
明日で連続十日以上になる。
そして俺の脇を通り過ぎ「明日もよろしくお願いします」とだけ残し、帰った。
先日の一件以来、俺と岡崎の間には微妙な空気が流れていた。
今日もそれを改善することができなかった。
……なぁ岡崎、お前はいつから動き出すんだ?
……俺はお前に背中を押してもらった。だから今、こうして再び音楽をやってる俺がいるんだ。
……お前の背中は誰が押してやるんだ?
二人が旅立って数日経つが、まだ帰ってくる気配はない。約束の期間はとっくに過ぎている。
一応連絡はあった、と思う。曖昧なのにはちゃんと理由がある。
その連絡と言うのが「延長するぜっ! by秋生様」という留守電一本だったのだ。
幼稚園へ汐を迎えに行ってる隙のことだった。
これではいつまでなのかとかが全くわからない。無期延期と同じだ。
だが救いもある。磯貝さんの手伝いと、汐があの夜の一件以来寂しがることがなくなったこと、だな。
パンの方はというと私が焼いて売っている。焼き方とかは秋生さんに伝授してもらったからな。
少し難しかったが、コツをつかめばすぐにできるようになった。磯貝さんは凄すぎね、ともらしていたが。
味の方もその磯貝さんにも味見してもらって、大丈夫といってもらえたから売りに出すことにした。
勿論、秋生さんには遠く及ばないのだろうがな。
「なんだか久しぶりにまともな古河のパンを食べた気がするよ……」
なんて涙ぐむ磯貝君の顔がとても印象的だったぞ。
話によると最新作の『こいのぼりパン』には刺身が入れられたらしい。
でも中身は黒焦げの刺身"だった"物体だったとか。
まぁそれはさておき、私も早苗さんに習い、オリジナルのパンを作ろうと思っていたときのことだ。
その時は、最近北の町から引っ越してきたばかり、という磯貝さんとは逆隣りの家の奥さんから「甘くないジャム」とやらを使って新作のジャムパンを作ってはどうかと勧められていた。
甘いものは苦手という人にピッタリかもしれない、と思い、そのオレンジ色のジャムの入ったビンを受け取っていたところ、汐がパタパタとよってきて私を呼んだ。
電話がかかってきたらしい。
家に戻り、受話器をとると聞き覚えのある男の声がした。
『古河さんかっ?』
急いでいるようだった。
私が古河の人間ではない、坂上智代だ、と名を名乗り、誰だと聞くとそいつは岡崎朋也の同僚だ、答えた。
芳野だった。朋也を強調しているように聞こえた。
「芳野祐介か? 朋也がどうかしたのか?」
少し声の調子が変わったと、自分でもわかる。
『早苗さんか秋生さんに代わってくれっ』
だが芳野は私の質問などどうでもいいと言わんばかりに訊き返してきた。
少し不愉快ではあったが、答えた。二人はいない、いつ帰ってくるかもわからない、と。
それより朋也に何があったのかが知りたい。
雰囲気でただごとではないことくらいわかる。
気になって仕方がなかった。
『じゃあ他に岡崎の家族の者はいないのかっ?』
「いないっ。連絡も取れないっ。今いる朋也の親類は私の目の前にいる汐だけだっ。そして、その汐の保護者は今は私だ。朋也のことなら私が聞く」
『……』
そう言っても芳野は納得しないようだったが、しばらくしてからようやく喋りはじめた。
『岡崎が倒れた』
「……っ!?」
『今岡崎は病院にいる。本当は家族の者に先に話すのだがしかたがない。連絡がとれるようになったら…って智代、聞いているのか?』
「あ、あぁ聞こえている……」
『しっかりしろっ。とにかく、すぐに病院に来い。それと、あの二人と連絡が取れるようになったらすぐに連絡しろ。いいな?』
「わ、わかった」
切れた。それがわかってから受話器置いた。
朋也が倒れた?
どうして? 事故? 病気?
いや、すぐに病院に行かなくては。向こうに行けばわかる?
待て、それより杏に電話を、違う、病院にいくことが先決だ。
大体、杏に連絡ってあいつはまだ仕事中で、だが緊急事態だぞ?
ちょっと待て、大体病院ってどこのだ? この町に病院なんて……いや、鷹文が言ってたあの新しい病院のことか?
だが、違う所って可能性も……。
「智代おねーちゃん?」
「え……? あっ……」
汐に呼ばれて気づいた。
あぁ、私、混乱してる。そして汐の顔を見て思い出した、杏の言葉を。
それで、冷静になっていくのが自分でもわかった。
『渚はね…五年前…汐ちゃんを産んで、そのまま…』
…………。
またこの子は失うのか?
大切な、大好きな家族を。
そんなの駄目だ。
朋也、それは私が許さない。
私は汐を抱き上げ、すぐに病院へ向かった。
続く
第5話へ
今回いろいろと加筆しました。書いていた当時、智代アフターが発売されていませんでしたので、智代アフターの要素は全くなかったんですけど、今回せっかくなので入れました。
ではでは、どうぞ。
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仕事を終え、事務所に戻る。
今日はいつもよりも少な目だった。
それほど疲れてはいない。
「大丈夫か?」
見た目にもそう疲れはいないはず、それでも芳野さんからかけられる声に変化はない。
どういう意味かぐらいわかる。だが
「大丈夫ですよ、今日はいつもより楽でしたから」
俺はそう答えていた。
ふと、事務所から明るい声が聞こえる。
同僚の声だった。
「その日は俺の息子の授業参観でよ……」
……浮いた話だ。
聞きたくない。
俺は背を向け、無言でその場から去り、帰った。
ひとひらの桜 第四話
秋生さんと早苗さんが旅立ってしまった。汐さんと「じゃ、後は任たぜっ」という言葉を残して。
秋生さんの突飛な発言のあった日の翌日、詳しく説明するから、というので再度来てみたのだが、それはパンの詳しい焼き方の説明だった。
杏のときと同じ手口だ……。
どこへ行ったのかとか、何故汐さんを連れて行けないのか、など旅についての詳しい説明は何もしてくれなかった。
早苗さんですら「頼みますねっ」としか声をかけてくれなかった。
嵐のように二人は消え、結局、私と汐さん、そして店番だけが残ってしまったというわけだ。
杏にも事の次第は話したが「何考えてんのよ……」とコメントするしかないようだった。
私が「帰ってきたらきっと話してくれるだろう」そういうと一先ずは納得したようだった。
だが、今日からの二、三日の間、私と汐さんの共同生活が始まる、それだけは揺るぎないことのようだ。
最初はどうしたものかと色々考えた。
何せこんな幼い子供と過ごすなど経験したことがない。
杏に応援を頼もうかとも思った。だが、
「ゴメン、一晩も自宅あけてたらあいつらにベッド汚されちゃうのよ、マニアックなのが好きみたいでさ……」
と、ため息混じりのなんとも憂鬱そうな声が返ってきた。
その……卑猥な響きだったから……それ以上突っ込むのはやめておいた。
けど、興味はあった。問いただしたい気持ちは確かにあった。何せ私はまだそういう経験が……って何を考えているんだぁぁぁぁぁぁぁ!!!!
家にも連絡を入れ、着替えとかも鷹文に持ってこさせた。
「姉ちゃん、ついに一夜を過ごす相手が……」
と言いかけた鷹文は見るも無残な姿にしてやった。
後ろからついてきた河南子は
「先輩、ついに処女を卒業っすか! 私より(ピー)年遅れて!」
と言いだしたときは久々に夜の街を暗躍していたころを思い出した。
着替えをため息交じりに受け取り、汐さんをみつめる。
私の家で引き取ろうかとも思ったが、パンを焼かなくてはならない。何より家族にも迷惑をかけたくない。鷹文と河南子にも会いたくない。
それに汐さんも古河パンの方が安心できるだろうしな。
『あの二人が帰ってくるまで、汐さんは私一人で面倒をみるのだ』
最初はそう気負っていた。
が、いざ始めてみるとそんな気負いはすぐに折れた。
その……なんだ、汐さんがだな、可愛いのだ。だからだろうな、これが楽しいのだ。
一昨日の野球の時に汐さんを構っていたのだが、その時随分と気に入ってもらったらしく私にすごく懐いてくれている。
勿論、最初は二人がいなくなると知ると「いっしょにいきたい」と言いだしたりもした。
やはり、いくら懐いていてくれても、いつも一緒にいるあの二人には敵わないようで、いくら「私が一緒だ」といってもなかなか納得してはくれなかった。
だがおやつに、と思って私がホットケーキを作ってやるとようやく笑ってくれた。
「……おいしい」
微笑む汐さんの顔は……あまりにも可愛くてだな、つい、抱き締めてしまったくらい。
そして、その時から私は汐さんを"汐"と呼ぶことにした。
いつまでも「さん」付けでは他人行儀だから。かといって杏のように「ちゃん」付けにしようかとも思ったが私には似合わない。
汐もそれでいいと言ってくれた。
一番楽しかったのは夜だ。
夕飯は私と二人で一緒に作ったんだ。
子供の好きなものと言えばハンバーグ。型は汐さんにやってもらった。
ハートが多かったから私はハートが好きなんだな、と訊いてみた。
やはりこういうのが女の子らしいというのだろうと、そんな答えを期待して待っていたが
「ハートさまのマーク」
と返ってきた。
なんのことだ、と更に訊くと
「にくのかたまりにすぎないの」
と続いてしまった。
その意味がわかってしまった私にも嫌気がさしたが、こんなことを仕込む張本人には殺意が湧いてしまった。
秋生さん、こんな子供に北○ネタを教えるな……。
とにかく、夕飯も楽しめた。
そしてお風呂にも入った。これも楽しかった。
湯船につかっているとき
「智代おねーちゃん、おっぱい、おっきい」
なんて言われて、またまた驚いてしまった。
「さなえさんよりおっきいかも」
少し、いや、かなり恥ずかしかったが、スタイルには、いや、自慢とかではないぞ、私は少しは自信があったから、嬉しくもあり、って何を言っているんだ私は……。
つまりだ、夜は楽しかったんだっ!
だが、寝る前になるとそれも少し変わった。
いくら懐いてくれていてもだ、この子はまだ、五歳の子供なのだと痛感した。
そして、あの二人の存在の大きさも。
「さなえさんは?」
明かりを消したから不安になったのだろう。
淡い月明かりに照らされた汐の表情は曇っているようだった。
そして弱々しい声だった。
電話とかで二人の声だけでも聴かせれば安心するだろうが、生憎、音信不通だ。
「あっきーは?」
このまま、泣いてしまうのだろうか?
だけど、それもいいかもしれない。
不安なら、寂しいなら泣けばいいんだ。
私がまた抱き締めて、私が安心させてやってもいい。
だけど、それはこの五年間、苦労し続けてきた、あの二人への裏切りだ。
私がそれをやるわけにはいかない。
「二人はな、しばらく帰ってこないんだ」
昼間にも言ったことをもう一度聞かせる。
「……」
だけど、不安そうな顔は更に曇ってしまう。
賢い子なのだろう、納得してはいないようだが、それ以上二人については訊いてこない。
勿論、単に引っ込み思案なだけかもしれないが。
「パパは?」
「え……?」
唐突な言葉。
ここで朋也の名をだす汐に驚いた。
答えに詰まっていると同時に、再会した時に話してくれた杏の言葉が蘇った。
『"泣いていいのはパパの胸の中だけ"だって…そう、言い聞かせてるらしいの』
強い衝動。抱きしめたくなった。
優しく抱いて、汐を安心させてやりたい、そんな思いが強くなってしまった。
だけど、私はそれをぐっとこらえることができた。
本当に危ないところだった。
手の力を抜いた。
大丈夫だ、私は多分、笑えている。
「パパは、朋也はな、汐のパパになろうと頑張っているところなんだ。だから、まだ来れない」
「……?」
抱きしめてやることはできない、だけど、安心させてやることならできるはずだ。
私は、汐を少しでも安心させてやりたい。
だったら、私が今すべきことは一つだ。
「汐はパパのこと、好きか?」
少しでもいいパパを知って、それで、寂しさを忘れてもらうんだ。
私にできることがあるとすれば、多分、それくらいだろう。
「こわい……でもアッキーはほんとはそんなことないって。ほんとは汐のこと、だいすきなんだって」
「そうか」
汐がいつまでも朋也を忘れないのも、心から嫌うことがないのも、きっと、あの二人のおかげだ。
さっきも、二人が帰ってこないと知って朋也を求めてくれた。
よくよく考えれば凄いことのように思えるし、同時に安心できた。
「なぁ汐、パパのこと、知りたいか?」
そして、遠慮がちではあったが、それでも力強く、うんっと頷く汐から、私はまた一つ安心をもらった。
それは、今日一番の尊いもののように思えた。
それから私は、汐が寝入ってしまうまで朋也のことを話した。
随分と頑張って起きて聞こうとしてくれたが、じきに穏やかな寝息を立て始めた。
……どうか、夢の中だけでも、優しいパパに会えますように。
ふすまを閉め、部屋を出る時、私はそんなことを願った。
智代からの連絡を受けたのは家に着いてからだった。
旅立ってしまった、って言ってたけど、どう考えても朋也のためだ。
智代は汐ちゃんのことで頭がいっぱいのようだったからあまり気にしてないみたいだけど、あたしは落胆していた。
だって、あたしがこれしかないって思った案がとても浅はかなものだってわかっちゃったから。
『お前ら、あの親子のことを知らなさ過ぎるんだよ』
……やっぱり、あたしにできることなんてないんじゃないかな?
あの日智代に言われたこと、忘れたわけじゃないけど、でも、そう思わずにはいられなかった。
旅にしたって、あたしたちに話さない理由がわからなかった。
汐ちゃんを託されたという智代が羨ましかった。
あたしだって、何かしてあげたい。
だったら、手伝えばいい。智代よりあたしの方が子供の扱いには慣れている。
でも、そう考えた瞬間また自己嫌悪に陥った。
卑怯だよね、だって、それは智代のためじゃなくて、あたし自身の勝手な自己満足だ。
そんなのに浸っても、空しいだけ。
だからあたしは智代の頼みを断った。
辺りを見回す。
部屋には珍しく椋も勝平もいない。
あたし一人だった。
……また、後悔しそう…。
……弱音、吐きそう…。
……ねぇ朋也…あたし、どうしたらいんだろうね?
その晩、あたしはいつもより早く布団にもぐった。
もちろん、すぐに寝付けたわけじゃないけど、寝てしまうのが一番手っ取り早いと思ったから。
ふぅ……。
今日も無事にこの町に俺の愛の灯が増やすことに成功。絶好調だ。
仕事帰りにはいつもの場所へと行くつもりだ。
そう、俺の新たな音楽仲間たちの集う場所だ。
俺がそんな夜の楽しみに心を躍らせ事務所に戻った時のこと、何やらその事務所が騒がしい。
俺が中に入るとそこにいたのは岡崎に、社長、それに同僚の山崎の姿だった。
「でも、岡崎君はこのところ働いてばっかじゃない」
「そうだよ、いくら俺でも岡崎に代わってもらう訳には……」
「気にしなくていいですって」
この会話だけで大体の想像はつくが、近くにいた別の同僚にどうしたのかと訊いてみた。
そいつの説明によると、山崎は以前から小一になる息子の授業参観のために明日は丸1日休暇をとっていたらしい。
だが、メンバーの一人が事故でしばらく働けなくなり、その穴を山崎に埋めてもらおうと社長は考えたらしい。
山崎は勿論、困惑したが、そこへ明日、山崎と同じく休暇が決まっていた岡崎が代わりに行くと言い出したのだ。
「岡崎君、君はいつも土日返上で働いてくれている。
だからたまには休んで欲しい、僕はそう明日を思って休暇にしたんだよ?」
「でも俺、家にいたってゴロゴロしてるだけっすから。
そんな俺が休んで息子さんのいる山崎さんが出勤なんておかしいですよ」
「だけどよ、岡崎……」
「山崎さん、楽しみにしてたじゃないですか、息子さんの授業参観。社長、休みなら次の機会で構わないっすから、明日は俺に行かせてください」
「……」
社長も山崎もそういう岡崎に反論ができず、結局、岡崎は明日も出勤することとなった。
明日で連続十日以上になる。
そして俺の脇を通り過ぎ「明日もよろしくお願いします」とだけ残し、帰った。
先日の一件以来、俺と岡崎の間には微妙な空気が流れていた。
今日もそれを改善することができなかった。
……なぁ岡崎、お前はいつから動き出すんだ?
……俺はお前に背中を押してもらった。だから今、こうして再び音楽をやってる俺がいるんだ。
……お前の背中は誰が押してやるんだ?
二人が旅立って数日経つが、まだ帰ってくる気配はない。約束の期間はとっくに過ぎている。
一応連絡はあった、と思う。曖昧なのにはちゃんと理由がある。
その連絡と言うのが「延長するぜっ! by秋生様」という留守電一本だったのだ。
幼稚園へ汐を迎えに行ってる隙のことだった。
これではいつまでなのかとかが全くわからない。無期延期と同じだ。
だが救いもある。磯貝さんの手伝いと、汐があの夜の一件以来寂しがることがなくなったこと、だな。
パンの方はというと私が焼いて売っている。焼き方とかは秋生さんに伝授してもらったからな。
少し難しかったが、コツをつかめばすぐにできるようになった。磯貝さんは凄すぎね、ともらしていたが。
味の方もその磯貝さんにも味見してもらって、大丈夫といってもらえたから売りに出すことにした。
勿論、秋生さんには遠く及ばないのだろうがな。
「なんだか久しぶりにまともな古河のパンを食べた気がするよ……」
なんて涙ぐむ磯貝君の顔がとても印象的だったぞ。
話によると最新作の『こいのぼりパン』には刺身が入れられたらしい。
でも中身は黒焦げの刺身"だった"物体だったとか。
まぁそれはさておき、私も早苗さんに習い、オリジナルのパンを作ろうと思っていたときのことだ。
その時は、最近北の町から引っ越してきたばかり、という磯貝さんとは逆隣りの家の奥さんから「甘くないジャム」とやらを使って新作のジャムパンを作ってはどうかと勧められていた。
甘いものは苦手という人にピッタリかもしれない、と思い、そのオレンジ色のジャムの入ったビンを受け取っていたところ、汐がパタパタとよってきて私を呼んだ。
電話がかかってきたらしい。
家に戻り、受話器をとると聞き覚えのある男の声がした。
『古河さんかっ?』
急いでいるようだった。
私が古河の人間ではない、坂上智代だ、と名を名乗り、誰だと聞くとそいつは岡崎朋也の同僚だ、答えた。
芳野だった。朋也を強調しているように聞こえた。
「芳野祐介か? 朋也がどうかしたのか?」
少し声の調子が変わったと、自分でもわかる。
『早苗さんか秋生さんに代わってくれっ』
だが芳野は私の質問などどうでもいいと言わんばかりに訊き返してきた。
少し不愉快ではあったが、答えた。二人はいない、いつ帰ってくるかもわからない、と。
それより朋也に何があったのかが知りたい。
雰囲気でただごとではないことくらいわかる。
気になって仕方がなかった。
『じゃあ他に岡崎の家族の者はいないのかっ?』
「いないっ。連絡も取れないっ。今いる朋也の親類は私の目の前にいる汐だけだっ。そして、その汐の保護者は今は私だ。朋也のことなら私が聞く」
『……』
そう言っても芳野は納得しないようだったが、しばらくしてからようやく喋りはじめた。
『岡崎が倒れた』
「……っ!?」
『今岡崎は病院にいる。本当は家族の者に先に話すのだがしかたがない。連絡がとれるようになったら…って智代、聞いているのか?』
「あ、あぁ聞こえている……」
『しっかりしろっ。とにかく、すぐに病院に来い。それと、あの二人と連絡が取れるようになったらすぐに連絡しろ。いいな?』
「わ、わかった」
切れた。それがわかってから受話器置いた。
朋也が倒れた?
どうして? 事故? 病気?
いや、すぐに病院に行かなくては。向こうに行けばわかる?
待て、それより杏に電話を、違う、病院にいくことが先決だ。
大体、杏に連絡ってあいつはまだ仕事中で、だが緊急事態だぞ?
ちょっと待て、大体病院ってどこのだ? この町に病院なんて……いや、鷹文が言ってたあの新しい病院のことか?
だが、違う所って可能性も……。
「智代おねーちゃん?」
「え……? あっ……」
汐に呼ばれて気づいた。
あぁ、私、混乱してる。そして汐の顔を見て思い出した、杏の言葉を。
それで、冷静になっていくのが自分でもわかった。
『渚はね…五年前…汐ちゃんを産んで、そのまま…』
…………。
またこの子は失うのか?
大切な、大好きな家族を。
そんなの駄目だ。
朋也、それは私が許さない。
私は汐を抱き上げ、すぐに病院へ向かった。
続く
第5話へ
by nijou-kouki-0326
| 2011-07-11 14:59